うるう

わたしの進路はいまだ宙ぶらりんである。

起きぬけに本を何冊か読んで、レトルトのカレーを食べ、本を読み、すこし眠り、起きたらラジオを聴いて、また本を読んだ。

応募した企業から選考が2次面接へ進んだという旨のメールが届く。にわかに何もかもが憂鬱になって目の前の選考状況から半ば強引に意識をそらすために追加でいくつかの企業へ履歴書を送った。

1日じゅう象のぶあつい皮膚のような雲が空を覆っており、毛布に包まっていてもさむかった。夕方から雨が降った。間一髪で洗濯物を取り込むのに成功した。

姉が入院するかもしれない。詳しい話や検査結果は明日医師から姉が直接聞かされることになっていて、「だめだったら(=入院することになったら)なぐさめてあげないと」と母がひとりごちていた。

「〇〇(甥)といっしょに毎日お見舞いに行こうね」と話しあった。

母の白髪を染めてあげたい。

所感

人間、死ぬ時は死ぬし、死なない時は死なない

死んじゃったら死んじゃったで、そこには「死んじゃった!」という事実が存在するだけで

すべてが消えてなくなってしまうわけではない

生きた軌跡はかならずのこる だれもかれも

わたしたちはただたまに死んじゃうだけなのだ 

あちゃーと頭をかいてひとしきり泣いたら、あたたかいお茶を飲もうね

(2024年2月26日17時30分)

 

わたしと〇〇

ジブリ作品が好きだ。大好きだ。

もっというなら宮崎駿のことがとても好きだ。わたしは彼のかなしいほどひたむきなありかたのひとつひとつに、姿勢に、作品に、心を救われたのだ。

 

対談集やインタビュー記事やドキュメンタリー作品にちらとでも目を通すと、彼の人が自然を愛する単なる気のいい大天才じいさんなんかではなく、どれだけ偏屈で根性の曲がったワンマン気質の頑固者かよくわかると思う。それによって周囲の人が被った被害も恩恵も、ときにみていて目を覆いたくなるものがあったりする。

何千何百という人が宮崎駿について語り、宮崎駿のつくりだす作品について語り、侃侃諤諤と議論を交わし、机を叩きあい、からからに渇いた喉をめいいっぱい震わせてきた。わたしには宮崎駿について語れるだけの言葉がない。あまりに個人的な感情に根ざしているので、議論の土俵に乗りたくない。その上で、その姿を目で追わずにいられない。考えずにいられない。

 

生きながら地獄にいるひとりだと、幾度考えてもそういう結論に至る。地獄の業火に焼かれながら机に向かう姿をおもう。

 

感激屋で、人間を憎んでいて、同時にどうしようもなく愛してもいて、己の才能にすべてをかけた人だ。

 

いつか宮崎駿が死んでしまう日のことを考える。多分その日は遠くなく、近いうちにかならずやってくる。

 

宮崎駿の口から発される言葉はよく矛盾して、食い違ったり、あとからいとも簡単に覆されたりする。あの人の言葉はあまり頭から飲み込んではいけない。

わたしには、宮崎駿がこの世界にたしかに存在して、来る日も来る日も机に向かい続けたという周囲の人の瞳にうつった彼の姿や、彼が残した言葉や、撮影された映像からしか彼をはかることができない。彼の姿からかぎられた情報をよみとろうともがいている。あるいはそれがわたしのすべてで、これからなのだ。

 

いつまでもわたしが宮崎駿を理解できる日は来ない。それだけが揺るぎない灯りだ。いつかいなくなってしまう人。偉大なる人。大いなる人。たったひとりの人。混沌と矛盾に生きた人。命をかけていた。

わたしはまだ死なない。死なないで、宮崎駿のことを考える。考えるしかないのだ。

 

 

 

 

 

お薬の時間です

「お薬の時間です。」

携帯が揺れた。プッシュ通知が画面に表示される。

 

毎日きまった時間に服用する必要のある薬を飲み忘れないように、アプリを入れている。

床にころがっていた2リットルのペットボトルを一息にあおった。錠剤を水で流し込み、そのままごろりとソファーに横たわって目をつむる。

おそろしい夢をみるか、しあわせな夢をみるか、そのどちらでも心臓を大きく波打たせて混乱のうちに起床することに変わりはない。眠りが浅いので夢を見ないということはない。夢の内容はいつもおぼろげにしか思い出せない。

朝、意識が浮上した瞬間に、バクバクバクッとおもしろいくらいに動悸がする。しっかり「目覚めなければよかった」と思う。すがるような思いでじっと動かずにいると、おおよそ1時間ほどで波は引いていく。毎日がこの繰り返しだ。

3月に大学を卒業する。就職先は未だ決まっていない。病気が原因なのであって、きみが悪いわけではないよと自分に必死に言い聞かせている。それでも空白の期間ができてしまうことが不安でたまらない。

基本的には、不安でたまらないことを自分に気取られないようにつねにいたって平気なふりをしている。けれど体は正直だ。動悸はいつも予期せぬタイミングで、「大将、やってる?」とでもいうようにひょっこり顔を出す。

動悸や身体にあらわれる諸症状をおさえるためには薬を飲まなければいけなくて、薬をもらうためには病院に行かなければいけなくて、病院に行くためには外出をしなければいけなくて…。気力を使うしお金もかかる。死なないためのお金を死ぬ思いで捻出しなければいけないのはどういうわけだろう。世界七不思議。いいえ、ファッキン資本主義。

毎日求人をチェックしている。明後日には面接が控えている。けちったせいでサイズの微妙に合わないスーツを着て、人のぎゅうぎゅうに詰まった電車に乗って、社会の一員みたいな顔をして、「ちゃんとした人」みたいな顔をして、質問の答えや志望動機をもにょもにょ唱える。たぶん噛みまくるうえにぜんぜん要領を得ないだろう。わたしのことはわたしがいちばんよくわかっている。

いなくなりたい。はやく死にたい。本が読みたい。映画をみたい。もっともっと勉強がしたい。自分の言葉を獲得したい。

 

「お薬の時間です。」

通知が表示される。

唇がへんに歪んだ。

 

 

 

 

 

 

 

大学卒業まで2ヶ月切ったけど就活している

うつ病統合失調症を患っている。

原因という原因はあるようでなくて、いややっぱりあって、生まれてから今まで生きてきて澱のようにたまったおもたい水がついに小さな部屋を満たして、壁を崩してしまったようだった。そんなようにわたしもゆっくりこわれた。

就職活動は学部4年生の6月で見切りをつけた。そもそも電車にもまともに乗れないのに、どうやってあんなに締め付けのきついスーツを着て神妙な面持ちで面接会場に向かえというのですか。

その頃大学にはほとんど行っていなかった。

卒業論文は指導教員に大迷惑をかけつつ(ほんとうに申し訳ないと思う)ぎりぎりで仕上げた。

あとは卒業を待つだけという段になって、急に不安になった。インターネットには怖い言葉が並ぶ。「新卒で就職できないと…」「派遣では…」「空白期間が…」「既卒は…」やめろやめろ。恐ろしい言葉のバーゲンセールをやめてください。

わたしはうつで統合失調症患者だけど、まだ未来を諦めていない。

こうなったらやけです。また就職活動を始めた。

今現在これを打ちながら未来への不安で起き上がれずにいる。テレビはちびまる子ちゃんを延々と映している。

まるちゃんには人生の機微がある。

おもしろおかしく生きたい。

わたしはまだ愉快な人間であることをあきらめたくないのだ。

 

生きる

2024/1/25

『シャン・チー/テン・リングスの伝説』を観た。

ここのところ友人を2人続けてなくしたり、体調がすこぶる悪かったり、安定しない生活で将来が不安だったり、とにかく身近な人がいなくなる恐怖を感じていたり、私生活がうまくいっていないこともあって、そんな折に観たものだから、何かが琴線に触れたのか(たぶん全部)、途中からずっと泣いていた。

自分の人生を空虚なものだと、空っぽなものだったと思いたくないと、ふと思った。

生きることは残すことだと思う。軌跡を残すことだと思う。どんな形であれ営みは残る。かならず。

そうしてわたしたちはまた会える。遠いどこかでまた会うことができる。

無性にそう信じたいと、思った。