わたしと〇〇

ジブリ作品が好きだ。大好きだ。

もっというなら宮崎駿のことがとても好きだ。わたしは彼のかなしいほどひたむきなありかたのひとつひとつに、姿勢に、作品に、心を救われたのだ。

 

対談集やインタビュー記事やドキュメンタリー作品にちらとでも目を通すと、彼の人が自然を愛する単なる気のいい大天才じいさんなんかではなく、どれだけ偏屈で根性の曲がったワンマン気質の頑固者かよくわかると思う。それによって周囲の人が被った被害も恩恵も、ときにみていて目を覆いたくなるものがあったりする。

何千何百という人が宮崎駿について語り、宮崎駿のつくりだす作品について語り、侃侃諤諤と議論を交わし、机を叩きあい、からからに渇いた喉をめいいっぱい震わせてきた。わたしには宮崎駿について語れるだけの言葉がない。あまりに個人的な感情に根ざしているので、議論の土俵に乗りたくない。その上で、その姿を目で追わずにいられない。考えずにいられない。

 

生きながら地獄にいるひとりだと、幾度考えてもそういう結論に至る。地獄の業火に焼かれながら机に向かう姿をおもう。

 

感激屋で、人間を憎んでいて、同時にどうしようもなく愛してもいて、己の才能にすべてをかけた人だ。

 

いつか宮崎駿が死んでしまう日のことを考える。多分その日は遠くなく、近いうちにかならずやってくる。

 

宮崎駿の口から発される言葉はよく矛盾して、食い違ったり、あとからいとも簡単に覆されたりする。あの人の言葉はあまり頭から飲み込んではいけない。

わたしには、宮崎駿がこの世界にたしかに存在して、来る日も来る日も机に向かい続けたという周囲の人の瞳にうつった彼の姿や、彼が残した言葉や、撮影された映像からしか彼をはかることができない。彼の姿からかぎられた情報をよみとろうともがいている。あるいはそれがわたしのすべてで、これからなのだ。

 

いつまでもわたしが宮崎駿を理解できる日は来ない。それだけが揺るぎない灯りだ。いつかいなくなってしまう人。偉大なる人。大いなる人。たったひとりの人。混沌と矛盾に生きた人。命をかけていた。

わたしはまだ死なない。死なないで、宮崎駿のことを考える。考えるしかないのだ。